筑紫女学園報/2010年(平成22年)6月7日発行 No71
Chikushi Jogakuen Online Report
 
学園報トップに戻る

大学・短期大学部トピックス
高等学校・中学校トピックス
幼稚園トピックス
法海
連載企画
ご意見・ご感想

法海

いのちについての距離
原爆投下先に広島が選ばれた理由
 今年に入って約12年ぶりに広島の平和記念資料館に行きました。ご存知のように、1945年8月6日の朝8時15分に広島の中心部、当時の産業奨励館(原爆ドーム)の真上に核爆弾が投下され、約15万人の人が亡くなりました。資料館では、当時の遺物が展示され、原爆の恐ろしさ、核という技術を持った人間の愚かさが強調されています。
 では、どうして広島に原爆が落とされたのでしょうか?アメリカによって核爆弾の投下が検討された町は、広島の他にも実際に投下された長崎をはじめ、新潟、京都、小倉と何カ所もあります。これらの候補地の中から広島が選ばれた理由はたくさんあるのですが、その一つとして「広島には連合国軍捕虜の収容所がないと思われていた」という点が挙げられています。つまり、原爆投下を行う側の捕虜がいないと考えられ、広島が選ばれたというのです。
 この理由からは、「自分にとって近い人間は殺さない」「自分にとって遠い人間は殺してもよい」という人間の心理がうかがえます。我々人間はいつの間にか「いのちについての距離」を量ってしまいます。自分の家族が死ぬと狼狽して苦しみ、異国の見たこともない人が餓死しても「可哀想に」と思いこそすれ、食欲を失うほど苦しむことはありません。このように、私たちは「いのちについての距離」によって、いのちの軽重を量ってしまうものと言ってよいでしょう。
インド留学時代に叱ってくれた師匠の言葉
 昨年の11月に、私のインド留学時代の師匠が亡くなりました。白衣派ジャイナ教の出家者であるジャンブーヴィジャヤ先生は、世界的な学者であると共に、希有なる宗教者であったと思います。ジャイナ教の出家者は、大変厳しい戒律を守りつつ「不殺生」という精神を徹底的に貫きます。完全菜食の生活を送りつつ、頻繁に断食をして、できるだけいのちを害しないことを心がけるのです。
 ある時、先生は私に「今日は何の日か知っているか」と尋ねました。「知りません」と答えると、「日本人のお前が今日の日を忘れてどうする」と大層叱られました。その日は8月6日でした。先生は、広島原爆投下の日をすっかり忘れていた私に、「今日は、広島で亡くなったいのちについて考えなさい」と、お寺でいのちについて瞑想するように命じました。先生は、どんなに小さないのちであれ、どんなに自分から遠いいのちであれ、それが害されることを嫌いました。何十年も前の異国の地で死んだいのちについても、そのことについて想像すること、そのいのちについて思いを寄せることのできる心優しい先生でした。
今こそ、どのようないのちにも「幸せであれ」と願う、仏陀の精神を
 ジャイナ教のこのようないのちに対する慈しみの精神は、同時代に成立した仏教においても全く共通しています。たとえば、仏陀釈尊は次のような言葉を残しています。
▲その生涯の中で不殺生を貫き、いのちの尊さを伝えてくださったジャンブーヴィジャヤ師の生前のお姿。
「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」
(『スッタニパータ』)
「世間に対して敵意なく、生きとし生けるものに対して自制があるのは楽しい」(『ウダーナ』)
 私たちは「いのちについての距離」を完全になくすことはできません。どうしても、自己を中心として同心円を描くように「いのちについての距離」を量ってしまいます。また、現代社会では「いのちについての距離」を縮めることなど、ただのキレイゴトのように考えられるかもしれません。しかしながら、この距離を縮めようとする思想がインドに生まれ、我々日本人にも伝わっているのです。どのようないのちであれ、「幸せであれ」と願う仏陀の言葉は、我々がいのちについて「考える」ことを促し、距離を量ってしまう愚かさを教えてくれるのではないでしょうか。

本学文学部日本語・日本文学科准教授 宇野 智行
執筆者プロフィール

本学文学部日本語・日本文学科准教授

宇野 智行

論文
『アートマンをめぐる仏教とミーマーンサー学派との対論』
『Ontological Affinity between the Jainas and the
Viewed by Buddhist Logicians』
『クマーリラとジャイナ教―アートマン論を中心にして―』など。

※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。

▲PAGE TOPへ


Copyright 2002 Chikushi Jogakuen