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昨年の11月に、私のインド留学時代の師匠が亡くなりました。白衣派ジャイナ教の出家者であるジャンブーヴィジャヤ先生は、世界的な学者であると共に、希有なる宗教者であったと思います。ジャイナ教の出家者は、大変厳しい戒律を守りつつ「不殺生」という精神を徹底的に貫きます。完全菜食の生活を送りつつ、頻繁に断食をして、できるだけいのちを害しないことを心がけるのです。
ある時、先生は私に「今日は何の日か知っているか」と尋ねました。「知りません」と答えると、「日本人のお前が今日の日を忘れてどうする」と大層叱られました。その日は8月6日でした。先生は、広島原爆投下の日をすっかり忘れていた私に、「今日は、広島で亡くなったいのちについて考えなさい」と、お寺でいのちについて瞑想するように命じました。先生は、どんなに小さないのちであれ、どんなに自分から遠いいのちであれ、それが害されることを嫌いました。何十年も前の異国の地で死んだいのちについても、そのことについて想像すること、そのいのちについて思いを寄せることのできる心優しい先生でした。 |
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ジャイナ教のこのようないのちに対する慈しみの精神は、同時代に成立した仏教においても全く共通しています。たとえば、仏陀釈尊は次のような言葉を残しています。 |
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「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」
(『スッタニパータ』) |
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「世間に対して敵意なく、生きとし生けるものに対して自制があるのは楽しい」(『ウダーナ』) |
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私たちは「いのちについての距離」を完全になくすことはできません。どうしても、自己を中心として同心円を描くように「いのちについての距離」を量ってしまいます。また、現代社会では「いのちについての距離」を縮めることなど、ただのキレイゴトのように考えられるかもしれません。しかしながら、この距離を縮めようとする思想がインドに生まれ、我々日本人にも伝わっているのです。どのようないのちであれ、「幸せであれ」と願う仏陀の言葉は、我々がいのちについて「考える」ことを促し、距離を量ってしまう愚かさを教えてくれるのではないでしょうか。 |