筑紫女学園報/2009年(平成21年)9月9日発行 No.69
Chikushi Jogakuen Online Report
 
学園報トップに戻る

大学・短期大学部トピックス
高等学校・中学校トピックス
幼稚園トピックス
法海
連載企画
ご意見・ご感想


こころの時代に 5
「こころ」の一側面 大学・短期大学部学長 小野 望氏
雨が降ってくる
この文から何が見えるだろうか。事実としては、空中の水分が凝集し、引力に従って移動しているということだろうが、その凝集した水滴を私たちは「雨」と名づけた。それが水であることを知っていても、空から水が落ちてくるとは、普通言わない。物事に名前をつけるのは、自らを取り巻く世界を切り分けることに他ならない。水を水でない物と区別することはもとより、水の一部である雨を一つの下位カテゴリーとして名前を与えるとき、そこには人間の認識が働いている。言葉はその認識に形を与えたものだから、言語表現を観察するとさまざまなレベルの認識を見いだすことができる。(降って)くるという表現には、地面に縛られて生活してきたヒトの視点が反映する。雲の高みを飛ぶ鳥たちなら、降っていくと認識するだろうか。
卯の花くたし
五月雨の異称で、卯の花をだめにしてしまう雨という名づけだ。万葉集以来の伝統を持ち、歌語、季語として受け継がれてきたから何やら風情を感じるけれども、雨にとっては言いがかりのようなレッテルだ。雨そのものではなく、雨の季節に花びらが朽ちていくことに着目した表現で、雨は行為者として捉えられている。もちろん、雨は卯の花だけを目がけて降っていくわけではないし、雨に叩かれなくとも花びらは茶色く萎れていく。すべて承知の上で、現象の一部を象徴として切り取り比喩的に表現する。こうした場合、無情の(と私たちが思っている)ものを有情として扱うことがしばしば行われる。最近では、予測不能な局地性の雨にゲリラ豪雨という名前がついた。暴力集団扱いというわけだ。
恵みの雨
旱天が続いた後など、少々激しい雨脚にみまわれてもありがたいと感ずることがある。直接的に、庭の草花が枯れそうだなどと意識していなくても、水とその恵みがもたらす糧が無くては生きられぬヒトとして、当然の感覚かもしれない。ところが同じく日照りの後であっても、傘を持たぬ帰り道、にわか雨に遭ったときには「雨に降られた」と言う。おろしたてのスーツがよれよれになったり、楽しみにしていた遠足が流れてしまったりすれば、間違いなく雨は加害者扱いとなる。雨はただ雨として在る。人間が都合を持ち込んで、さまざまに表し分けるだけだ。
「こころ」の一側面
ゲリラと呼び慈雨とも言う。その身勝手さは、人間が「まずは自分(たち)」を起点として物事を認識することの現れと言えるだろう。そういう人間の認識の限界に気づくことはとても大切なことだ。


▲PAGE TOPへ



Copyright 2002 Chikushi Jogakuen