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![]() 私たちが仏教を学ぶ経典の中には、表紙の裏面に絵画を描いたものがあります。それらは「経典見返絵(以後「経絵」)」と呼ばれ、とくに平安時代にさかんに制作されました。代表的はものとしては、平清盛が作らせた「平家納経」が挙げられます。 さて、経絵はどのような役割を持つのでしょうか。私は、経絵から当時の人々の仏教への想いが読み取れると捉えています。もともと、見返しというのは、巻物仕立ての経典の劣化を防ぐために表紙を付けたことから必然性に生まれた構造上の部分ですが、そこに絵を描く必然性はないのです。では、なぜ経絵を描くのでしょうか? そもそも経典が書写されるようになったのは、後世に、そして他国に仏教を伝えるテキストを作るためであり、書写によって功徳を積むといった思想も背景にありました。『法華経』法師品には、 「妙法華経を受持、読、誦、解説、書写するならば、(中略)未来世において、まさに仏となるべし」 と説かれています。このように写経は、功徳を積む善い行い(作善業)とされていましたので、経典に絵をつけることも、作善業の一環として、『法華経』写経の盛行した平安時代に広まっていったと考えられます。 |
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![]() ![]() こうして書写が盛んになる中で、経典を彩る経絵の画題になったのは、法華経の中に含まれているたとえ話でした。つまり経絵は説話画なのです。興味深いことに、その絵の描き方は国を渡って大きく変化していきます。 インドから経典が伝えられてた中国での経典は、画面が横長で、お釈迦様が端に寄せて描かれ、お経の内容が分かりやすく具体的に表されているのが特徴です。それらは紺色の紙に金色の字で書写、作画されたものでした。 ところが、版画という新たな手法によって量産が可能になり、それが輸出された韓国では、余白が無いほどに金と銀とを使って細密に描写され、韓国風の経典へと変化します。そして、さらに日本では、画面が縦長に変化。当初こそ同じ構図で描かれていたものの次第に改変が進み、「百済寺本」(写真)のようにお釈迦様が中央にレイアウトされるようになっています。 |
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![]() 日本において経絵の変化が顕著になってきたのは平安時代、12世紀中期です。それには平安初期に始まった「法華八講」が強く影響しているものと思われます。 法華八講とは、法華経8巻を8座で講じる法会で、天皇から庶民にまで広がりを見せました。当時の宗教と生活が融合した、まさに「生きた法会」だったのです。 そして、法華八講に用いるために経典が盛んに作られ、趣向を競う会う中で料紙装飾経の多様化がもたらされます。その代表的な例が「平家納経」と言えるでしょう。平家納経を作らせた理由を記した願書の中には「善を尽くし美を尽くせしむところなり」とあり、法華経28品を1品1巻に分けて担当した人々の創作意欲をかき立てるような工夫がなされています。また、お釈迦様の言葉である経文を高貴な素材を用いて記そうと、素材の多様化も進みました。 こうしたなか、「大山祇神社本」のように、あろうことか釈迦説法図が全く描かれないものさえ登場します。平安時代の特徴として、自分の中で理解したもののエッセンスだけを絵にした結果かもしれません。当時は宗教と遊びを分かたずに楽しんだ時代でもありました。 最後に今一度、経絵とは何だったのかと考える時、私は、経典内容の図解という目的を超え、当時の人々の法華経信仰を表現する小画面絵画へと展開した、いわば各国、各時代の人々の信仰を写し出す鏡のようなものではないかと思います。お経に付けられた小さな絵は、私たちに今もその想いを語りかけているようです。 |
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※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。 |
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