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法海
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法海

 

「仏像の誕生と仏の慈悲」
シルクロードの発展と共に多様な文化が開花
 昨年、NHKは25年ぶりにシルクロードを特集した番組「新シルクロード」を放映しました。音楽は前回の喜多郎から今回はヨーヨー・マが監督。アジアの民族楽器とチェロが奏でるメロディーを背景に、ハイビジョンやコンピューターを駆使した構成に、はるかシルクロードへ思いを馳せた方も少なくないでしょう。
 今回紹介されたキジルの石窟群やトルファンのベゼクリク千仏洞における仏教壁画の輝きに、私もすっかり魅せられてしまいました。
 インドで興った仏教は、13世紀の初め、イスラム教徒の進攻によって最後の拠点を失い、インド国内では衰退の一途をたどることになります。しかし、紀元前より周辺地域へ伝播をとげていた仏教は、シルクロードの発展とともに、中央アジアから東アジアにおいて、多様な文化を開花させました。絵画や彫刻、さらには仏塔や寺院などの造形物には、それぞれの地域や時代の特徴が表れていますが、インドを源泉とした仏教美術の影響も保持されています。

仏像の誕生
 さて、造形物の中でも数多く造られたのが仏像です。ところが、インドで造像が始まったのは、仏陀釈尊の滅後四、五百年経ってからのことだといわれています。なぜ、長きに渡りインドの仏教徒は仏像を造らなかったのでしょうか。これは、インド仏教史上の謎の一つです。
 また、仏像が最初に造られたのは、いつ頃どのあたりであったのかということは、「仏像の起源論争」として今日でも研究者の間で熱い議論が交わされています。
 西北インドのガンダーラ起源説とインド中部のマトゥラー起源説が真っ向から対立していました。しかし、最近の研究では、両地方においてほぼ同時に造像活動が始まり、かなり早い段階でお互いに影響しあっていたのではないかとさえ言われています。
 さらに、新たなる調査研究に基づき、ガンダーラのスワート地方ブトカラ遺跡で発見された数々の浮彫りにある仏陀の姿こそ、最初期の仏陀像ではないかという指摘がなされ注目されています。しかもこれらの浮彫りには、釈尊の生涯におけるある出来事をテーマにしたものが数例あるようです。下の写真はそのひとつです(紀元後一世紀)。
中央に座っているのが釈尊であり、向って左が梵天(ブラフマン)、右が帝釈天(インドラ)です。「展覧会図録『ブッダ展』(NHK他、1998年)より」 苦悩する人々によって仏像に慈悲の心を投影
梵天勧請(ぼんてんかんじょう)
 菩提樹の下で悟りを得、ブッダとなられた釈尊は、悟りの境地を楽しむとともに、悟りの内容を人々に説き示すことをためらっておられました。その時、古代インドの最高神である梵天をはじめとする神々が釈尊に近づき、悟った真理を人々のために説き示すよう要請しました。三度に及ぶ願いを受け、釈尊は人々に説法することを決意されました。
 このエピソードは「梵天勧請」と呼ばれ、釈尊の生涯でも重要な出来事のひとつです。
 では、最初に仏像を造ろうとした人々は、なぜこの「梵天勧請」の場面を選んだのでしょうか。

新たな「仏(ほとけ)」の誕生
 「梵天勧請」は、単に仏教がそれまでのインドの伝統的な教えより優れているということを示しているのでしょうか。むしろ、釈尊がためらいを捨て、説法を決意されたところにこそこの出来事の重点があるのではないでしょうか。
 釈尊の到達した「悟り」とは、自己完結的な「悟り」ではなく、苦悩する人々を何とか救いたいという願いを含むものであり、そこには「救い主」としての新たな仏陀の誕生が表現されているという解釈に私は注目しています。
 人々は、救い主としての仏陀の誕生の喜びをこの仏像に託したのではないでしょうか。とすれば、仏像誕生の裏には、苦悩する人々を救わずにはおれないという仏の慈悲の心が刻み込まれているのです。


自らのよろこびを他に与える慈しみの心を「慈」といい、他者の苦しみを自分の苦しみと感じ、これを抜き去ろうとする心を「悲」という。人間の慈悲には限界があるが、仏の慈悲は一切の衆生に及ぶから大慈悲という。



本学 文学部長・人間福祉学科教授 中川 正法

本学で主に「仏教学」「仏教文化論」などを担当。研究分野は、インド仏教とくに律文献や仏教説話文学。また、大学文学部長として学部運営にあたる。

※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。

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