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法海
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法海

 

「仏教と女性解放」

女性としての新たな生き方を求めて

 私の研究の関心は、「日本の近代化のなかで起こってくる社会問題に、仏教者がどのように対応してきたか」ということにあります。具体的には、差別・貧困・教育・医療・福祉など、さまざま問題を対象としていますが、特に強く関心を持っているテーマの一つに、女性解放の問題があります。
  日本において、女性解放運動が本格化するのは、今から百年前の日露戦争後のことです。戦後、平塚雷鳥の「元始、女性は実に太陽であった。」という発刊の辞で知られる雑誌『青踏』が刊行されています。雑誌『青踏』に集まった女性たちは、「新しい女」と呼ばれ、古い因習に縛られた女性のあり方を批判し、そこからの解放を訴えました。
  実はこの時期、仏教教団にも、それまでと異なる女性の生き方を求めた人物があらわれています。その代表的な女性として、大谷籌子(西本願寺大谷光瑞門主夫人)と九條武子(大谷光瑞門主の令妹)の二人を紹介しましょう。
皮肉なことですが、近代において女性の地位を向上させた要因の一つに戦争があります。近代戦争は総力戦であるため、戦地で戦う男だけでなく、内地において家庭を守り、後方支援をなす女性の協力も必要とします。そこで国家の側は、女性に対し、女性としての社会的役割(ジェンダー)を果たすことを要求する一方で、国民としての積極的な参与意識を啓発しようとします。わが国において、この傾向が顕著にあらわれはじめるのが、日露戦争においてでした。
  この時期、西本願寺仏教婦人会の活躍にはめざましいものがありました。籌子夫人は、開戦と同時に、出征・戦没兵士の家族の救護活動等を行うため、全国に婦人会の設置を呼びかけています。「をみなとて・・・・」は、その際に詠われたものでした。この歌には、国の未曽有の危機に接し、女性として果たせる役割を担おうとする姿勢と同時に、女性の自立に対する強い意欲もうかがうことができます。
     

女性の自我のめざめと女子大学設立運動

 近代における女性の自我のめざめは、この性分業と自立への願いとの葛藤のなかで進行していったのですが、わが国の場合、性分業に対する国家側の要求の前に、女性自立の側面は徐々に圧殺されていきました。しかし、日露戦争直後は、一度火がついた女性自立への欲求が、ただちに消えることはありませんでした。その明確な現われの一つが、籌子と武子によって行われた女子大学設立運動でした。

 明治42年9月、籌子は夫光瑞ともにインド仏蹟参拝を経て欧州に向かいます。武子も、その年の暮れに、新婚の夫・九條良致のイギリス留学にともなって出国しています。二人は、フランスで落ち合い、欧州各国をまわって、女子大学設立のため女子教育事情を視察しました。
  ところが、帰国直後の明治43年11月、これから女子大学設立の準備を進めようとした矢先に、籌子は28歳という若さで、病に倒れ帰らぬ人となります。籌子の遺志を継いだ武子は、翌年「女子大学設立趣意書」を発表、全国を廻り資金の募集を呼びかけました。武子の巡教は、各地で熱烈な歓迎をもって迎えられ、多くの女性から寄附の申し出が寄せられました。
  しかし、武子の前には、またしても新たな難関が立ちはだかります。大正3年、武子を支援してきた兄光瑞が、西域探検などで莫大な借財をつくり、門主を引退することを余儀なくされたのです。光瑞が去った後の本願寺は、女子大学を無用視し、寄附の申し出も借金の返済へと切り替えられていきました。

 武子の女子大学設立運動は、本願寺の借財問題により完全に挫折し、婦人会の自主性も次第に失われていきました。ところが、大正8年に本願寺は、突如として女子大学の設置を文部省に申請します。背景には、第1次大戦後に欧米の女性解放思想や運動が紹介され、東京女子大学・神戸女学院大学部などが相次いで設立されたことがありました。当時、大学令による女子大学は認められていませんでしたが、大学の名称を冠する女子専門学校は、従来の日本女子大学校を加えて3校となりました。しかも、そのいずれもがキリスト教主義の学校であったのです。
  ようやく借金整理の目処がついた本願寺は、キリスト教への対抗意識から女子大学の設置申請に踏み切ったわけです。ところが設立計画は、完全に婦人会の手を離れ、本願寺の体面が優先されたものとなっていました。この申請も結局は、文部省の認可を得られず、大正9年に京都女子高等専門学校(現・京都女子大学)として設置されています。
     


 京都女子高等専門学校が設置された年、武子は10年ぶりにイギリスより帰国した夫とともに東京に移り住みました。その後、武子は、関東大震災を機会に、スラム街で救貧活動を行い、児童福祉施設を設立するなど、社会事業へと自己実現の道を見出していきます。ベストセラーとなった著書『無憂華』の印税も、すべて慈善病院「あそか病院」設立ために費やされました。
  武子は、歌友であった与謝野晶子・柳原白蓮や、「新しい女」たちのように、社会のしがらみから離れて、恋に生きる奔放な生き方をついに選ぶことができませんでした。伝統ある本願寺の姫君として、九條男爵家の嫁として、旧来の社会秩序に懊悩しつつ、しかも女性に対する抑圧情況に風穴をあけるため、女子大学の設立や、社会事業に身を捧げつづけました。

 武子の活動の根底には、生命を与えられ、互いに支えあって生きているものの尊厳に対する深い自覚がありました。それゆえ、単に男尊女卑的な思想や風習を攻撃し破壊するだけでは、ほんとうの女性解放はなし遂げられないという認識があったのです。
  武子が社会事業活動の過労により死去して70年あまりが経ちますが、今なお、武子に共感を示す女性は後をたちません。今日、女子の大学進学率は、男子を上回り、もはや女子大学は不要であるとの声も聞かれます。しかし、武子の目指した「女性による女性解放の拠点としての女子大学」は、ほんとうに実現されたのでしょうか。
     


本学文学部人間福祉学科助教授 中西 直樹

本年度4月より就任。著書『日本近代の仏教女子教育』(法蔵館、2000)、
『仏教と医療・福祉の近代史』(法蔵館、2004)。


※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。

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