今回の「百年の飛翔を訪ねて」では、昭和33年から、昭和39年までを紹介します。 この期間は、水泳王国「筑紫女学園」の存在を、日本のみならず世界に示した時期でした。 |
本学園の水泳部は、戦時中を除き、九州・全国大会で活躍を続けていましたが、さらに昭和33年に田中聡子(現・竹宇治)さんが入学してからは、数々の国際大会に出場するなど本学園の存在を日本水泳界に示すことになりました。 本学園の国際大会出場の皮切りになったのは、昭和33年第3回アジア大会(東京)において、田中さんが100m背泳で日本記録を出して優勝した大会でした。田中さんはその後、八幡製鉄の黒佐監督の指導を受けながら練習を続け、高校2年生の昭和34年7月、日本室内選手権大会(神宮プール)において200m背泳で2分37秒1の世界新記録を出し、昭和35年のローマオリンピックでは100m背泳で銅メダルを獲得しました。 昭和39年の東京オリンピックには、卒業生の山本憲子(現・浅倉)さん、木村トヨ子(現・中村)さん、在校生の森実芳子(現・松崎)さん、浦上涼子さん(物故)などを率いて出場し、水泳王国「筑紫女学園」の名を日本のみならず世界に示し、学園の歴史に永く称えられる功績を残しました。 |
昭和39年、水月文英校長が、終戦直後から希望し構想をしていた修練道場が完成しました。論語の「仁者楽山」から「楽山荘」と名づけ、入仏式を挙行しました。本堂は『維摩経』の「直心是道場」によって「直心堂」と名づけ、宿寮は『瓔珞経』の「道練心塵垢」にちなんで「練心寮」と名づけました。 |