筑紫女学園報No47 6月1日発行
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小説「親鸞」と玉日姫

「親鸞」 吉川英治 著 私がはじめて親鸞という名を知ったのは、吉川英治氏の小説「親鸞」であった。父の遺した蔵書の中にそれはあった。初版は昭和13年、講談社刊行だそうだから、たぶんその時の本であろう。黒っぽい表紙の、分厚い本だったことを覚えている。読んだのは戦中から戦後にかけての時期なので、小学校5・6年生か、中学1年生のころだったろうか。
 小説としての面白さもあって、親鸞という人に強く心ひかれたが、それ以上に少年の心に印象的だったのは、内室として登場する玉日姫という女性であった。文学好きで、小説の中の女性はすでに数多く知っていたが、たぶん誰よりも美しい女性であった。玉日姫は、現在では実在を否定されているが、私にとっては今でも伝説として語り伝えられるにふさわしい女性なのである。
 ある布教使の話である。ある寺に布教に行き、この玉日姫の話をしたところ、聴聞をしていたそこの住職が「それは間違いだ」と大きな声で注意したそうである。「私だって、実在の人物でないことは知っているよ。でもね、親鸞聖人の信仰を語るとき、本当にふさわしい人だと思わないかい?」
「親鸞聖人伝・弥陀の橋は」 津本 陽 著 私にはその布教使のくやしさがわかるような気がした。小説は事実ではないが、そのかわり詩的真実がある。それは場合によっては事実よりも強く私たちの思念をゆさぶる。それが小説の面白さなのである。しかし、玉日姫が消え去ってすでに久しい。戦後書かれた丹羽文雄氏の「親鸞」にも、先頃出版された津本陽氏の「親鸞聖人伝・弥陀の橋は」にも、玉日姫は出てこないのである。
 吉川英治氏の「親鸞」は昭和35年 (1960年)、東映によって映画化された。聖人は中村(萬屋)錦之助、玉日姫は新人の吉川博子が演じた。吉川は十分に美人であったが、私には少年の頃に読んだ小説の中の玉日姫の方がずっと美しく思われた。
ミニ解説 仏教用語「無碍」  障り、さまたげのないこと。智慧、光明など仏陀の徳についていう。太陽の光は妨げるものがあればわれわれに届かないが、阿弥陀仏の光明は無碍である。
 人間の無明に妨げられずに、それを照らす。人間の煩悩を消してしまうことなく、それと一体不二となる。
 したがって、念仏者は「無碍の一道」を生きると親鸞聖人は説かれる。
※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。
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