人間一生の仕事が知と愛とのほかにない
本学園大学 アジア文化学科 教授 デニス ヒロタ


 この言葉は、西田幾多郎の『善の研究』に付されているエッセイ『知と愛』に記されている。生活の方向性が問われている今日に、ヒントを提供している言葉であると思う。
 例えば、教育は何のためにあるか。普通、いい仕事に着くためであるとか、あるいはいい暮しができるようになるためであると答える人が多いのではないか。しかしさらに問えば、いい仕事とは何か、最良の生活を送るとは何かということに至る。
 西田は我々の人間としての真正な仕事は、知と愛にあるのではないか、人間としてのもっとも深い充実感は知と愛の働きにあるのではないかと語っているのである。さらに、『人間一生の仕事が知と愛とのほかにないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである』と書いている。
 おそらく西田は、「愛」という言葉をキリスト教の書物から借用した。しかし、日本仏教の伝統的な考え方を表しているのであろう。こうした観点からすると、真正な意味では知ることと愛することは同一の作用であるといえる。
 我々は通常自己を立て自己を守ろうとして、知らず知らずのうちに、他者である人々との差を拡大しようとし、あるいは「物」の使用価値を考慮しながらそれを見ている。西田によれば、「知ること」は物を突き放して見るのではなく、「物となって考えること」である。物となるというのは、自己の狭い立場を放して、より広いところから物を見ることである。
 西田はこうした動きを愛の作用であるといい、愛する働きと真正に知ることが一つであるという。教育は人間の生活を無限に拡大していくためのものではなくて、こうした知と愛の力を育てるためにあるのではなかろうか。だからこそ西田の言葉は、我々現代人にこうした日本文化の伝統を思い出させるのであろう。