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![]() テレジンは、チェコ共和国の首都プラハから60キロほど離れた所にあり、1780年に作られた高く厚い土の壁に囲まれた要塞の中にある街です。大要塞と小要塞とがあり、19世紀以降は、反ハプスブルグ運動に関わった政治犯を収容するための監獄として使われていました。 1940年に、当時のチェコスロバキアがナチス・ドイツに占領され、小要塞には拘置所が、大要塞にはゲットー(ユダヤ人隔離居住区)が建設されました。その後41年から45年までの間、テレジンは、西ヨーロッパのユダヤ人をアウシュヴィッツに送るための強制収容所へと姿を変えます。 テレジンに送られてきたユダヤ人は約14万4000人。その4分の1に近い3万3000人が、病気、飢え、過労、そしてドイツ兵による暴力や拷問、刑罰で命を落とし、8万8千人がアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られ、ガス室で命を奪われました。 このテレジンには1万5000人の子どもたちが収容されていました。10歳から15歳未満の子どもたちが、親から離され「子どもの家」と呼ばれる建物の中で生活し、飢えや寒さ、親に会えない寂しさの中で、粗末な紙切れに4000枚の絵を残しました。子どもたちの多くはテレジンで、残りの多くはアウシュビッツに送られ殺されました。生き残った子どもたちは100人に満たないと言われています。 遊園地やサーカスの風景や、家族の姿、まだ幸せだった頃の街の様子など、笑顔を忘れていた子どもたちは、まるで生まれ変わったように目を輝かせて小さくなったクレヨンを握って一生懸命に絵を描いたそうです。絶望的な状況の中であっても、子どもたちが希望を失わずに書き続けた絵は、私たちに戦争の悲しさ、愚かさを訴えるとともに、明日への希望を持つことの大切さを教えてくれるようでした |
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![]() ![]() 私は「第13 代・高校生平和大使」として、2010年10月11日〜18日まで、トルコのアンカラとイスタンブールに派遣されました。派遣の目的は、原爆展の開会式でスピーチをすることと、現地の高校訪問にありました。 |
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![]() ![]() 放課後は生徒たちにとって第2のステージ。終業のチャイムとともに紫苑館2階の学食が吹奏楽部の練習場へと変わり、管楽器の音色が響き始めます。 今回取材に伺ったのは、福岡市役所ふれあい広場で初披露となるマーチングの練習日。警察からの依頼で出演が決まった年末年始特別警戒・交通安全県民運動出動式を目前に、学食から講堂へ場所を移して、行進の練習が行われていました。「警察の正式な行事に出 そんな吹奏楽部のモットーは時間を大切にすること。限られた時間を無駄にせず、中身の濃い練習を心がけています。また、勉強と部活の両立に悩んで一度は練習を離れた生徒がいたそうですがテストを頑張って、部活に戻ってきてくれたというエピソードも紹介してくれました。 「一人ひとりの個性や表現で音は違いますが、それらの音を重ねて、一つの曲をつくり上げるのが吹奏楽の醍醐味ですね。そして、部活を通して仲間の大切さを知りました。目標は全日本吹奏楽コンクール県大会への切符を手にすることです」と島津さん。元気な曲はメリハリあるサウンドを響かせ、シックな曲はなめらかに、全員で心を合わせることによって団結力が日に日に高まっていく中、目標達成への確かな手応えを感じているようでした。 |
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