宗教に端を発した争いが続く今日、「宗教など無いほうがいいのでは」という声も聞かれます。でも、それは正しいのでしょうか。 振り返ってみると、50年程前から社会の世俗化が問題視されるようになり、その中で伝統的宗教に対する信頼や権威は失墜していきました。「天にまします我らが神よ」と空を仰いでも、都会では星さえ見えません。しかし、地球規模で人や情報が行き交うボーダレスな時代にあって、人々は自分が何者であるかというアイデンティティを喪失し、それに伴う不安を乗り越えるものとして宗教を求めています。新宗教の台頭は、その希求に応えられない部分が生じてしまった伝統的宗教への失望も一因といえるでしょう。 伝統的キリスト教は、全能神が全ての存在を創造し、神の言葉として世に遣わされたイエス・キリストの受肉と贖いによって救済が成り立つとしています。この考えに基づけば、世界中の人がキリスト教徒になって初めて人類は救われることとなり、キリスト教は19世紀まで世界布教に傾注します。しかし、布教活動は国家の植民地主義を手助けする結果を招き、その反省から「第2バチカン公会議」を機に、他教の中にも真理を認める大転換が行われました。その後、他を邪教とする排他主義から、他教をキリスト教の一部として内包する包括主義、また対等の価値と独立性を認める多元主義へと論議は進み、現在では様々な形で他宗教との対話が試みられています。
冒頭でお話しましたように、伝統的宗教には現代人の状況に充分応えられない部分があることは否めません。つまり、物語として示された教えの宗教的意味を訪ねるとともに、他教との違いや類似性を明確にすることによって相互理解を深め、自己変革に活かすことが必要となっているのです。それができるならば、伝統的宗教が、それぞれに深さと広がりを増した姿で共存することも難しいことではないと思います。 「わけのぼるふもとの道は多けれどおなじ高嶺の月を見るかな」とは、麓にいる人のいう言葉です。登ろうと思えば一つの道を選ぶことが肝要です。と同時に他の道を学ぶことによって自らの道はいよいよ深められ、広がりを持ったものとなるでしょう。宗教が対立を生むのではなく、現代に生きる人々の依り処となるために、今後数多くの対話が行われることを心から願ってやみません。 |
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もっといろんなことに視野を広げたいですね------------ 今回の連続講座を通じて、仏教だけでなく、様々なジャンルの講義を聴くことができ、とても勉強になりました。このようにいろんな角度から考える機会をいただき、ありがとうございました。(20代女性) |
※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。 |