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先日、「キャリアプランニング」という科目において「自校教育」をテーマとする授業を担当しました。建学の精神を中心に、本学の教育理念と目標を伝えることが授業の主な目的です。校章の由来や仏教行事について話をした後、「あいさつはなぜ、なんのためにするのでしょうか」という問いを投げかけてみました。就職活動に備え、「あいさつ」がきちんとできるようにと、笑顔や動作を身につけることに専心している学生の皆さんには、まったく予期せぬ質問だったようです。
いつも使っている「あいさつ」という言葉ですが、漢字で書くのはなかなか難しい。本年、常用漢字が二十九年ぶりに改定され一九六文字が追加されますが、その中に、「挨(おす・ひらく)」「拶(せまる)」つまり「挨拶」が含まれているのには驚きました。
では、「挨拶」が仏教語であることをご存知でしょうか。『岩波仏教辞典』には、以下のような記載があります。「ぐっと迫る。ぐさりとやる。禅で、言葉などによって相手の急所をつく意に用いる。転じて応答・返礼などの意味に用いられ、また出会いや別れのときの親愛の言葉や動作のことを一般に挨拶というようになった。」
私は、「挨拶をする」のは、「お互いがお互いの存在を認め合うこと」ではないかと思っています。私と同じ分野の研究者が最近出された仏教入門書に「人はなぜ挨拶をするのか?」という章があり、先生は挨拶を「自己の存在を確認する手段」とおっしゃっています。「知っている人に会うたびに挨拶し、その挨拶が返されることで何度も何度も自己の存在を確認しているのでしょう」 |
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昨年、福岡市立曲渕小学校の生徒・保護者そして地域住民が一堂に会されたなかで講演をさせていただいた時のことです。生徒の皆さんに問いかけてみました。「なぜ挨拶をするのかな」
いくつかの答えが続いたころ、元気な声とともに手を挙げてくれた男の子はこう言いました。「お家に帰ったとき、ぼくがここにいるよって、わかってもらえるから」壇を下りて、ほお擦りをしてあげたくなったのを思い出します。「ぼくは、わたしはここにいるよ」「そうだよね。そこにいるよね」認め合うことの暖かさ、安心感。それは、互いのいのちの「受けとめ手」があることの確認と喜びにつながる入り口ではないでしょうか。 |
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