筑紫女学園報/2010年(平成22年)9月8日発行 No72
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学園史余録―水月哲英師と海外開教―
百年史編纂をとおして振り返った創立の志 ▲桑港仏教青年会の会堂前にて(明治33年)。前列2列目左から4人目が水月哲英師。この写真は、百年史の資料調査に際して、和歌山市妙慶寺のご住職薗田香融師から複製をいただいたものです。

▲開教とは、それまで仏教が伝わっていない地域(無教地)に新たに仏教を布教していくことをいいます。『仏教海外開教史資料集成』は、本学准教授の中西直樹の編集によりハワイ編(6巻)・北米編(6巻)・南米編(3巻)が不二出版から刊行されています。今後、朝鮮編・台湾編・中国編・別編を刊行していく予定となっています。
 昨年五月、学園創立百周年から二年遅れて、ようやく『筑紫女学園百年史』を刊行することができました。本書は、通史編・資料編・回想録・年表の四部から構成されていますが、筆者は編集委員として、通史編と資料編を担当しました。
 編集に際しては、編集事務局の井上美香子さんをはじめ教職員から多大のご協力をたまわり、卒業生や旧職員からも貴重な情報や資料の提供を受けましたが、特に戦前期の資料がほとんど学園に保存されておらず、編集作業は困難をきわめました。そうしたなか、特に筆者が注目したのは、学園創立者水月哲英師が学園創立に至った経緯についてでした。学園の歴史の重みをしっかりと受け止め、新たな歴史を刻んでいく上でも、百年を機に学園の原点に立ちかえり、その理念を明確にしておくことが最も必要であると考えたからです。>
創立者 哲英師の在米時代をたどって
 しかし、この点の詳細な事情は、従来必ずしも明らかではありませんでした。哲英師は、昭和十一年発行の校誌『筑紫』掲載の「回想録」のなかで、「昭和三十四年私が米国仏教会(桑港)に駐在して居ました時、米国女性の社会的地位が高い事について、女子教育の進歩が其の主因であることを知り、私の将来の事業は日本女子教育にあると、心中ひそかに期する所ありました。」と記しています。ところが、米国でどのような活動をし、何を考え、学園創立を企図するに至ったのか―、そうした点については、ほとんど語っていません。哲英師は、教団と移民たちからの大きな期待を受けながら、わずか半年間で不慮の事故によって下半身不随となり帰国を余儀なくされています。帰国後、哲英師は、自らの不甲斐なさを恥じ、ほとんど在米時代のことを語ることがなかったようです。
 そこで、私の百年史の編集作業は、まず哲英師の開教活動の資料を集めることからはじめました。当初は、そうした記録は残されていないかもしれないと考えていましたが、桑港仏教青年会の機関誌『米国仏教』に哲英師が多くの文章を残していることを知ったのを皮切りに徐々にその実態が明らかとなってきました。詳しくは、百年史に譲りたいと思いますが、『米国仏教』を国内で唯一所蔵する京都大学附属図書館に出向き、古い紐で縛られ埃をかぶった『米国仏教』の束のなかから、哲英師の米国移民たちに向けたメッセージの数々を目にしたとき、はじめて師が学園を設立しようと思った意図を実感できた気がしました。
教育者としての原点を見る
 当時の邦人移民は、経済的に貧しい家庭に育ち、そのため十分な教育も受けていません。英語も話せず、労働条件の厳しい状況のなか異国の地で孤独な生活を送っていました。哲英師の教育者としての原点は、そうした人たちに寄り添い、その力になることにあったのです。女子教育の必要性も、単に米国の女子教育に刺激を受けたからだけでなく、こうした移民たちの関わりのなかから痛感されたことであったろうと思われます。
 ところで、海外で仏教伝道活動に携わった開教使たちは、哲英師のほかにも、教育・福祉活動、出版・文化事業、平和・国際交流運動などで活躍し、大きな足跡を残しています。しかし、そうした事実は余り知られていませんし、関係する記録・資料もきちんと保存されていません。そこで、そうした資料を集め「仏教海外開教史資料集成」として刊行することにしました。哲英師から与えていただいた私の新たな研究テーマであると考えています。

執筆者プロフィール
本学文学部人間福祉学科准教授
中西 直樹
平成17年4月、本学に就任。主著に「日本近代の仏教女子教育」(法蔵館)、「仏教と医療・福祉の近代史」(法蔵館)などがある。

※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。

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