![]() |
|
![]() |
![]() |
|||
![]() ![]() ![]() 例えば、水の入ったコップを見たとしましょう。私たちはそれを「水である」「コップである」と言語化して理解しているはずです。「水である」と概念化しているからこそ、それを飲むという行為を選択し実行します。もしそれが「泥水である」と知覚されたら、飲まないという選択をすることでしょう。つまり、仏教以外のインド思想では、人間にとって利益と判断されるものに対して積極的な行動をとり、不利益と判断されるものに対してはその逆の行動をとることが自然と考えられていたのです。利益か不利益かの判断は当然言語化されて考えられますから、「水である」という概念構想を伴った知覚が正しいことになります。すなわち古代インドでは、人間の行為選択の基準となる知こそが正しいと考えられていたのです。 ところが、仏教ではこのような一般常識は通用しません。上記のディグナーガの言葉に見られるように、対象を見て未だ概念構想されていない知、「水である」という言語化が起こる前段階の知こそが正しいとされます。 仏教がこのような見解を持ち出すには、もちろん理由があります。まず「概念構想」「言語化」とは、「人間の言葉によって区別すること」に他なりません。これを仏教用語で「分別」といいます。私たち人間は「言語化された世界」を生きています。日常生活の中で「水」と「泥水」の区別がつかなければ、私たちが生活する上で不自由を感じます。しかし、その「水」「泥水」という言葉には、既に何らかの価値づけが行われており、私たちの独善的な価値観が反映されてしまっているのです。利益を求め、不利益を避けることが一般常識ですが、仏教ではそのような価値づけそのものが人間の自己中心性に基づいていると考えるのです。 この仏教の伝統は次の親鸞聖人の言葉にも表わされています。 ![]() ![]() 真実の世界そのものである仏(=法身)には、何ら区別する作用はなく、言葉すらも絶えています。仏にとってはあらゆるものは不二であり、言語による価値づけは意味をなしません。ゆえに、仏から見ればまず男女・老少などの区別はありえません。善人・悪人などの判断は、自分の都合に振り回された人間が下しているわけです。したがって、仏の救済に「分別」「区別」「差別」があるはずもないのです。 ![]() 親鸞聖人は「はからひ」という煩悩に根ざした人間の価値判断を捨てて、絶対他力の道を歩まれました。このことも、「無分別」である仏に信を置き、仏の知を正しい認識基準、正しいものさしとされたからに他なりません。このような「無分別のものさし」は、「分別」の中で生きる人間から見れば、特異かつ非常識に映ることでしょう。 しかし、私たちが日常で下す価値判断はどこまで正しいのでしょうか。自分よりも下をつくり自己の優位を保つ人間こそが、差別という問題を作ってきました。また偏差値や能力差によって人間を分別する社会の中で、リストラやいじめなどの新たな問題が噴出しています。私たちが価値判断のものさしとしている常識は、「私が生まれてきた意味」を矮小化させ、「いのち」の順位をつける社会を作っているのです。 ![]() ![]() 仏教という宗教は、世間の価値基準を仮のものであるとし、真実の基準ではないと説いてきました。「無分別」の仏知を価値基準として仰ぐ姿勢は、ディグナーガから親鸞聖人に至るまでの仏教の伝統なのです。 私たちは「自分はあの人よりもましだ」「自分はあの人よりも役に立つ」「私はあの人よりも劣る」「私はあの人よりも力がない」などと、自他を分別比較して価値づけを行ってしまいます。しかし、このような態度は、感謝に満ち満ちたいきいきとした人生をもたらすでしょうか。自己増大と自己閉塞に襲われて、本当の意味での自分の「いのち」を見失ってしまうことになりかねません。一切分け隔てのない「仏」という真実のものさしこそが、自らの「いのち」の価値を回復できるのではないでしょうか。 ![]()
|
※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。 |
![]() |
![]() |