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![]() ![]() 交通事故の犠牲者は、ようやく1万人を割り込んだものの年間約8千人、自殺者は年間3万4千人にものぼります。さらに、子どもの虐待事件は公的機関が把握した数だけでも約2万6千件に達し、犠牲となる子どもたちが急増しています。これらの数を報道される争いの犠牲者数と並べてみてください。安穏としている状況ではないことが分かると思います。 また、子どもが犠牲になる一方で、犯罪の若年化も深刻です。清川輝基はその著書『人間になれない子どもたち』の中で、「子どもが子どもを育てている」と指摘しています。隣県で起きた小学校6年生女子児童による友人殺害事件を機に、「いのち」「こころ」の教育こそが急務であるとの指摘が一層氾濫しましたが、声高にそれを言う大人や識者は、「いのち」と「こころ」をどのように理解しているのでしょう。 「いのち」は「こころ」の入れものです。また、「こころ」という入れものを持たない「いのち」もありません。「いのち」の中に「こころ」が入って初めて人間になれるのです。それは身体と同じ。心臓、肺、胃といった各部分を分けることができないことと変わりありません。それを理解した上でなければ、「いのち」と「こころ」の教育はないと思います。 「いのち」について、私は3つの考えを持っています。まず「私のいのちは私のものではない」ということ。両親がいて初めて子どもが誕生するわけですが、その親にもそれぞれ両親がいます。そうして数代遡るだけで、ご先祖の数は膨大なものになります。つまり私たちは、たくさんの「いのち」を背負って生きているのです。 次に「人間はいのちしか食べられない」ということです。私たちが口にするものすべてに「いのち」があり、それをいただいて私たちは生きています。相済まないとは思いませんか。食事の時の「いただきます」は「いのちを頂戴いたします」ということに他なりません。 そして3つ目は「必ず死ぬ」ということ。こう考えると、不思議なご縁でいただいた「いのち」を、「いのち」のお蔭で保ち、そして「いのち」の行き先を持っているということが分かるのではないでしょうか。 こうした「いのち」の意味を感じ取るのが「こころ」です。そして社会のこと、自分のことが分かった時に初めて「こころ」が育っていくのです。 世界にはたくさんの飢えた子どもたちがいます。また地雷で手足やいのちまで失った子どもたちも数え切れません。私は身内が亡くなった時の返礼に『地雷より花をください』という本を贈りました。この本が1冊売れると1uの土地から地雷が撤去できるとのことです。しかし、昨年カンボジアを訪れた際、私は頭を殴られたような思いになりました。そこでガイドを務めていた若い日本人女性は、ボランティアで地雷の撤去に携わり、その活動に人生を捧げてました。本を購入して「良いことをした」ような気になっていた私は、その人を見て「自分は社会を知らない」と痛感しました。 彼女のような人を除けば、日本人は動けない人がほとんどです。9・11同時多発テロの際、修学旅行先の米国で不自由な状況に陥った本学園の中学生に、現地の人々は十分過ぎる程の物資を届けてくれました。もし逆の状況が起こったら、私たちはどこまで動けるでしょうか。 ![]() ![]() 1963年にベトナム全土の平和を願い、焼身供養を行ったティック・クワン・ドック師の遺志を継ぐ、テック・ナット・ハーン師は「Engaged Buddhism(阿満利麿著『社会をつくる仏教』より)」、慈悲の「悲」「苦」の共有を中心とした仏教を提唱しています。「悲」とはカルナー(呻き)、言葉が絶えた世界のことですが、ごく身近なことに例えれば、したたかに体を打つと痛みのあまり、声も出ないのと同じです。つまり誰もが呻きの世界を持っているわけです。なのにそれを抑え込んで、何事もないかのように生きている人が少なくありません。それでは他人の苦しみなど、なおさら分かりはしないでしょう。 これまで人間のしてきたことの中には、目をそむけたくなることもあります。現代も同じです。しかし、それをじっと見つめてください。他人の悲しみが「こころ」に響く敏感な人になっていきましょう。仏教とは生きることに敏感になることです。行動する仏教、社会をつくる仏教の実践を通じて、平和な世の中を実現するために動いて欲しいと思います。 |
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心から大切だと思える人がいることに誇りを持ちたいです------------ 小さいころから私を愛してくれた両親や家族に本当に感謝したいと改めて思いました。そして私が母親になったとき、子どもたちに人を信じることや人の暖かさを伝えていけたらと思いました。 |
※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。 |
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