医学の進歩とともに脳死・臓器移植が注目されています。しかし、あるドクターは言いました。「脳死状態の人はヒゲが伸びるのを知っていますか?」と。それでも家族は死として受け入れることができるのか。現代医療は難しい問題を抱えているのです。その中で私たちは、どう生き、どう死ねばいいのでしょうか。 「ターミナルケア」とは、広義に解釈すると、予後不良(難治性の疾患を患い、現在のあらゆる医療技術を駆使しても治癒の見込がなく、死期が近いと考えられる状態)と診断された人や老人に対して、その人の残された日々がより望みどおりに過ごせるよう、その人の基本的欲求(身体的・精神的・社会的・宗教的必要等)を充足させ、その人にとってより望ましい死が迎えられるようにケアすること。さらに、死に臨んだ本人だけでなく、家族の様々な苦悩や本人が死んだ後の悲嘆に対する援助も含みます。 つまりその目的は、死に臨んだ人がその人らしい「いのち」を全うする、すなわち、その人ならではの「生」を全うすることへの援助であり、痛みの緩和を中心とした様々な症状のコントロールやその人のQOLを高めることに他なりません。 しかしながら、病院、社会福祉施設、自宅といったターミナルケアの場は多くの問題を抱えています。専門施設も同様です。現在、ターミナルケアを専門とする施設としては、緩和ケア病棟、キリスト教と結びついたホスピスが知られていますが、後者は末期ガンかエイズ末期の患者さんしか入院することができないうえ、数が急増しているにもかかわらず、全ガン死者の約3%しかケアを受けられないのが現状です。残念ながら、ターミナルケアに仏教を持って取り組む施設「緩和ケア・ビハーラ」も例外ではありません。 しかし、1985年に始まった「ビハーラ運動」は、そうした課題を踏まえつつ、治癒の見込みのなくなった患者さんに、仏教の立場から救いを与えたいと願うもの。私自身、寺にいても、家族が重い病気を罹っている方にどう声をかけてあげればいいのか逡巡することがあり、僧侶にとっても死に向かう人やそのご家族への在り方が大きな問題であることを痛感しています。 そんな時、思い出すのは、『歎異抄』第9章の中にある「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり(どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです)」という親鸞聖人の言葉です。死期を悟った人にとって、来世観を持つか否かは生き方を大きく左右するに違いありません。また、お釈迦様が亡くなる前後のご様子を記した『ブッダ最後の旅〜大パリニッバーナ経』(岩波文庫刊/写真)に描かれた、老いを抱えつつ最後の教えを説き、衰弱していくお釈迦様とそれを見守る人々の姿からも、学ぶものがあるのではないかと思います。また、『往生要集』の中にまとめられた「臨終行儀」を更に実践の作法として個条書きした『二十五三昧起請』にも、緩和ケアの先駆けを見ることができるような気がします。 私事ですが、4年前に叔父を亡くしました。彼は九州大谷短期大学の教授として生命倫理を教え、『歎異抄』の講義も行っていましたが、闘病中は「俺には、QOLは難しいなぁ…」と嘆いていたものです。しかし、最後に会って帰る時は、「また、お浄土で会おうな」という言葉で私を送ってくれました。 かつて『ドキュメント’99』(日本テレビ系)のある回では「ビハーラとは、死に臨んだ時だけのことなのか」とメッセージしていました。 日常の在り方が大切なのだと思います。私の老病死をテーマとした講義では、そのビデオをはじめ、ビハーラ病棟の映像も学生たちに観せています。すると多くの学生が「いのち」について思いを深め、死を我が事として受け止め、生き方を見つめ直すようになってきます。 いかに死すべきかの問いは、そのままいかに生きるべきかの問いに他なりません。そのことへの気づきも含め、ターミナルケアにおいて仏教が果たす役割は大きいものと考えます。皆さんがこの講座を機に、死に、生に、仏教に関心を持って頂ければ幸いです。 |
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※「法海」とは、仏法の広大なことを海にたとえている言葉です。 |