今月のことば

2017年のことば

2017.01

 新年を迎えました。皆さんそれぞれに、色々なお正月を迎えられたことと思います。

 お正月の楽しみの一つは年賀状です。特に昔の友人の年賀状を見ると、懐かしかったり、嬉しかったりします。そういう年賀状の中には、よく「いかがお過ごしでしょうか」と書かれています。また、自分自身もよくそう書いています。

 最近、詩人の吉野弘さんの「過」と題する詩に出会いました。次のような詩です。

日々を過(す)ごす
日々を過(あやま)つ
二つは
一つことか
生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々
「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたはどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようで

 人生において「過ち」はつきものです。自分自身や人間全体の歴史を振り返っても、数えきれないほどの過ちが繰り返され、今もまた繰り返しているように思います。しかしながら、私たちは自分の犯した過ちにきちんと目をむけているでしょうか。過去の過ちは過ぎ去ったもの、終わったものとして忘れ去り、むしろ、自分を正当化するような風潮が強くなったような気がしてなりません。自らの「過ち」から目をそらし、学ぼうとしないところに、人間としての前進はないのではないかと思います。

 「今月のことば」は、先日の報恩講でお勤めした『正信偈』に出てくる言葉で、阿弥陀仏の光の徳を十二種に分かってたたえられたものです。“阿弥陀仏は、無量光・無辺光・無礙光・無対光・光炎王・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々の生きとし生けるものを照らし、…”と出てきます。仏の教えに触れるということは、多くの徳を持つ光に出会って、自分自身が照らし出されるということでもあります。光に出会うとき、闇が知られます。闇がわかったということは、光に照らされた人生の歩みが始まるということです。

 自らの「過ち」から目をそらさず、蓋をせず、自らの闇に真摯に目を向けていくことは、決して暗い人生ではなく、光に照らされて、明るく確かな人生の一歩一歩を刻んでいくことではないでしょうか。一年の始まりにあたって、今一度自分自身を振り返り、新しい年を明るく歩んでいきたいものです。

 

(文責:宗教科)